話し言葉と書き言葉

話し言葉と書き言葉

By MANZEMI

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Twitterを見ていたら、タイムラインにTogetter【ラノベ作家さん『#ぶっちゃけ小説はリズム』ー文章力が低い、苦手って人は、大好きな作家の文章を音読してください】が流れてきました。文章力が低い人は、自分の文章を口に出して読んで推敲するという方法を、推奨する内容でした。元々、日本人は小説を読むときにも音読、つまり文面を口に出して書物を読んでいたのですが。黙読というのはその意味で、比較的新しい文化でもあります。音読することによって、リズムとか生まれる面は確かにあります。

とはいえ、話し言葉=口語と、書き言葉=文語とは似て非なるものではあります。日本の場合は平安時代に書き言葉としての文語が、清少納言や紫式部をはじめとする女流文学者たちの大活躍もあって、大いに発展した歴史があります。しかし、コレを書き言葉の基本形とした結果、明治の頃には文語と口語の乖離が著しい状況となり、言文一致運動が起こります。話し言葉と書き言葉について、自分なりに思ったことをだらだらと綴ってみようかと思います。

■昔は音読が基本■

例えば中学や高校の漢文の授業で学ぶ、五言絶句や七言絶句など中国の漢詩であっても、行末の文字は韻を踏むというルールは、覚えているでしょう。李白や杜甫の時代の漢詩も、音読するのが基本でしたから、やはり韻を踏んでリズムを持たせることが、漢詩には求められたわけで。それよりも古い後漢末の魏の曹操は、詩人としても著名な人物で、この時代は詩に節をつけて歌っていたと考えられています。

そういう形で、中国も日本も文学は音読を基本として発達したため、韻を踏んだり語調を整えたりして、リズム感があるものが名文として後世に伝承された部分があります。黙読することが基本となった現代においても、やはりそういった文化の伝統は無意識に私たちの中に残っているのでしょう。もっと言えば、識字率が低かった時代は中国も日本も、講談という形で文学は大衆に消費されました。

日本だと琵琶法師が『平家物語』を語り、もうちょっと時代が降ると、太平記読みと呼ばれる人たちが活躍しました。江戸時代なると、講談や浪曲や落語といった〝語る芸〟が発達いたします。音曲に乗せる方が、語りやすいし聞きやすいですし、またそういうリズミカルな方が、長大な物語であっても覚えやすいという、プラス面もあるそうです。古今亭志ん朝師匠の落語なども、歌うようと讃えられたリズムが素晴らしいですね。

■倒置法は書き言葉向き?■

ことほど左様に、話し言葉と書き言葉は密接な関係性を持っているのですが。それでも、やはり違う部分はあるわけで。例えば俗流文章指南本などには、以下の例文だと前者は早くを強調し、後者は持ってくることを強調すると説明されていたりもします。

「早く持ってきて」
「持ってきて早く」

確かにそういう側面はあるでしょうけれど、これが話し言葉になると、どっちを前に持って来ようと思う、強調の意味はあまり変わりません。

話し言葉であれば、2回繰り返した方がより強調した感じになります。

「早く早く、持ってきて」
「持ってきて持ってきて、早く」

といった形で。実際に口に出して・聞いてみて、確かめてください。これは置き位置にあまり関係なく、前者を倒置してみると解ります。

「早く早く、持ってきて」
「持ってきて、早く早く」

利用者の情報伝達能力には、あまり差がないでしょう? 後者の方が、若干急かしているニュアンスは強く出てきますが。

漢詩の韻が行末に来るように、話し言葉の場合は後の方が印象に残る側面はあるでしょうね。頭韻というテクニックもありますが、述語が最後に来ることが多い、膠着語の日本語なら尚更です。話し言葉と書き言葉のこういう違いに注目すると、表現の幅も広がるような気がします。逆に言えば、話し言葉での推敲と書き言葉での推敲とは、上記のような違いを理解した上でやらないと、微妙に読みづらい文章になってしまう危険性も、十分にあるのです。

■落語台本とラジオドラマ■

自分はもともと落語が大好きな人間ですし、中の人の一人は昔、立川志らく師匠の弟子だったこともありますしね。自分が原作を書く場合は、その原稿をいつでも新作落語の台本にできるように、意識している側面もあります。ただ、だからこそ話し言葉と書き言葉は、微妙に異なる面もあるというのは、強調しておきたいです。ここら辺については、芦辺拓先生の小説講座の自分の受け持ちパートでも、簡単に触れるかもしれませんが。

自分も芦辺拓先生も、ラジオドラマがけっこう好きなほうでして。自分の小説をラジオドラマとして、声優さんや俳優さんに演じてもらって、AmazonのAudibleなどの音声配信サービスで配信できたら、面白いですねとは話したことがあります。そうなった時、小説をそのまま朗読するタイプにするか、落語の台本のような形に改変するか、ラジオドラマのように会話劇仕立てにするかによっても、ずいぶん違ってくるでしょうね。

ちなみにこの記事は、Androidの音声認識アプリ『Edivoice』を使って記述しています。話しながら書き言葉を認識させているのですが、出来上がった文章を読むとやはり書き言葉として修正を加える必要が、そこそこあります。こちらのノートでも、音声認識アプリについて触れてありますが、エッセイ的な文章には話し言葉でスラスラ書け、あまり推敲は必要ないのですが。ややお固い文章だと、考えながら書くので、リズム感は軽視されることが多いです。

■書き言葉の認識■

芦辺拓先生との小説講座も、あと一か月ほどに迫りましたし(※本記事の執筆時点)。自分はあくまでも補助的な立場で、文章技術についていくつか指導したいとは思っています。ただし、名文を書くための技術ではありません。出版社の編集としての経験と、フリーライターとしての経験と、漫画原作者としての経験をミックスして、むしろ個性や癖がない、平凡な文章の書き方講座になると思います。個性は自分で試行錯誤するものですからね。

ところで、ケンブリッジ大学の研究なるコピペ文が一時期、流行りましたね。これ自体は検証した人によれば、どうやらフェイクのようなのですが、書き言葉の視認という点で、とても興味深いです。やはり、書き言葉には書き言葉の理解しやすさがあって、話し言葉のリズムや韻とは、微妙に違うのでしょう。以下に、問題の文章の原文と、検証した出典のサイトのリンクをば。

 「こんちには みさなん おんげき ですか?
わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく」

興味深いですね。書き言葉は文頭と文末が認識の鍵、というのは事実のようですし。最初と最後の文字以外を入れ替えてもある程度は読める現象は〝Typoglycemia〟と呼ばれ、ノッティンガム大学のGraham Rawlinson氏の1976年の博士論文が大元ということで。なるほど、言葉遊びで頭韻と脚韻が存在する理由ですね。興味がわいた方は、下記のMANZEMI小説講座にどうぞ。では、長めの講座宣伝記事、終了です。( ´ ▽ ` )ノ
どっとはらい

※本文中に記載されているMANZEMI講座の募集は記事執筆時点のものです。最新の募集情報はMANZEMI公式サイトの各ページをご確認ください。
※本記事はMANZEMI講師のnote記事を承諾を得て転載したものです。
※出典:https://note.com/mogura2001/n/n4fa4256121c4


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