倍速視聴と作品消費
視聴者が、アニメや映画やドラマを倍速視聴する問題。興味深い記事でしたので、個人的に思うところを。作品の消費の仕方の問題は、小説も漫画もアニメも映画も舞台も、同じような部分はあるのですが。時代の変化にどう対応するかは、頭が痛い問題です。でも、そこで他者に自分のやり方を押し付けるのも、安易に迎合するのも、自分は違うと思うんですよね。自分の本業にも関わってくることですから、ちょっと長めの考察を書いてみます。
先日、若い世代を中心に広がる「倍速視聴」について、若者の消費行動に詳しい20代のゆめめさんと40代の筆者で語り合った「ドラマも『切り抜き動画』で観る…『倍速視聴派』Z世代の視聴実態」は大きな反響を呼んだ。「1時間ドラマを5分30秒で観る」と語ったゆめめさんの感覚には、共感と驚き、批判、さまざまな声がタイムラインに溢れた。
では、こうした状況に「作り手」はどんな思いを抱いているのか。拙著『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)で現役の脚本家としての気持ちを語ってくれたのが、アニメ『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』のシリーズ構成や「プリキュア」シリーズの各話脚本などを務める小林雄次さんだ。携わった作品が早送りされることについて、小林さんに率直な思いを聞いた。
■能動的表現と受動的表現■
でも、小説と漫画が能動的な表現で、アニメや映画や舞台が受動的な表現である以上、コレは仕方がない部分も。小説や漫画は、読者が自分のペースで読むことが出来ますし、感動した部分で読むのを止めてしばし反芻したり、余韻に浸ったり。あるいは、伏線部分を確認するために、前の章に戻って読み直したり。イニシアティブは読者にあるので、能動的。読むのが速い人は一冊を数時間で読んだり、遅い人が数日かけて読むのも、当人の自由です。
小説や漫画や絵本は、主観表現ともいえます。初期の近代小説である『ロビンソン・クルーソー』が、クルーソー自身の主観的な記述であるように、私はこう見た・思ったという表現に優れています。逆に映画やアニメや舞台は、時間表現。時間の流れに沿って表現され、登場人物の内面の独白も、何分何秒で終わって場面転換、とタイムスケジュールに沿っています。記事中に出てくる時間芸術というのは、このことです。ちなみに、漫画に映画的な時間表現を採り入れたのが、手塚治虫先生。
一方、アニメや映画や舞台は、「今のセリフ、もう一度言って」とかは出来ないわけで。「今、感動の波が押し寄せてるから、いったんストップして」とか無理。観客は、作り手の出してきたモノを、一方的に受け入れるしかないです。だから受け身、受動的な表現ということです。なおコレは、それぞれの特性であって、上下優劣は言っていません。しかし、ビデオというメディアの登場で、この部分が大きく変わってしまったのが80年代。『アオイホノオ』でも描かれていますが。
■ビデオの出現と観賞の能動化■
ビデオで早送りや巻き戻しが出来るようになって、観賞の仕方が変わったわけで。その内に機能がドンドン付加されて、倍速再生や停止、そしてコマ送りも可能に。そう、映画館やテレビ放映で、一期一会の体験であった、受動的な表現であった映画やアニメが、小説や漫画のように能動的なメディアになった瞬間でした。例えば名作『ブレード・ランナー』という作品も、本来はカルトな人気を誇る作品で終わるはずでしたが。ビデオの登場によって、作中に散りばめられたイースターエッグが、解明できることに。
これがDVDの登場で、さらに加速。ビデオテープでは、停止やコマ送りはテープに機材にも、ダメージを与えましたから。でも、DVDでは遠慮なくやれましたし。この手法は、現在のアニメでも〝円盤を買わせるテクニック〟として、繰り返しビデオ鑑賞するための、遊びを入れてるわけで。能動的になった変化を利用して、DVDやBlu-rayを購入させておいて、都合の悪い部分は制作者側が望む観賞スタイルを押し付けるのは、ダブルスタンダードだと感じる消費者もいるでしょう。
■既に音楽界で起きたこと■
コレは、音楽の世界でも、似たようなことが起きました。アーティストは短編集のようにアルバムを製作し、収録曲の選択とかその並び順とか、思いを込めて製作しますが。iTunes Storeの登場とデジタルでダウンロード購入が可能になり、アルバム単位ではなく曲単位で購入が可能になると、シングルカットされた曲だけが大きく売れ、その他の曲の売り上げが顕著に落ちることに。これに反発して、iTunes Storeから撤退するミュージシャンもけっこういました。
でもこれも、けっきょくは消費者が決めること。けっきょく、倍速視聴でもスキップでも、視聴者の観賞したいように観賞する、その流れは止まらないでしょう。その上で、この作品はジックリ鑑賞するに足る作品と、思わせる地力が必要でしょう。個人的には、「今や映像は能動的に観るものに“進化”しているのだから、本が斜め読みや飛ばし読みをされるように、映像も倍速視聴や10秒飛ばしをされる前提であってもよいのでは」という意見はあっても良いですが、自分ならそういう作り方はしない、と。
■附和雷同しない共存を考える■
コレは、漫画界でも縦スクロールがコレからの潮流だと、浮ついたことを言う人間に、与(くみ)しないのと同じです。そもそも縦スクロールが新しいとは言えないのは、巻物の読み方と同じですから。日本の歴史を見ると、巻物の歴史って竹簡や木簡の昔からあんがい長く、でも冊子も同じぐらい長いんですよね。今はスマートフォンが全盛で、縦スクロールはそれに特化していますが。これだって、折りたたみ液晶の普及でアッサリひっくり返るかもしれない程度の話。
ならば、ワイド4コマ漫画とか、そっちの方が縦スクロールに捲りにも対応した対応した、表現ですしね。どっちが廃れても生き残れるし、どっちも共存できて、ヨサゲ。アニメや映画も、廃るかもしれない表現に全部ベットするより、昔ながらの映画表現に徹して、イースターエッグもたくさん仕込んで、という手法が無難ではないかと。あるいは、5分とか10分で分かるダイジェスト版を、別途作る方が建設的。MANZEMIの運営母体出している電子書籍レーベル春由舎で、無料お試し版を出している理由です。
■ライブ体験と温故知新と■
そうなると逆に、自分は舞台とかライブの表現が、逆に価値を持つと思うんですよね。実際、これも音楽界ではとっくに起きています。プリンスはCDを無料で配り、それで興味を持った人間が、コンサートに来てライブの体験をする、そこに価値を置いたわけで。ある意味で、レコードの出現でそっちのセールスに傾きすぎてた業界の形式を、昔ながらの手法に戻したわけで。実際、ライブはレコードより感動が違いますしね。これは、落語とか漫才の演芸も同じ。
小説や漫画の場合は、そのライブの芸がないのが、辛いですけれど。ただ、『ティファニーで朝食を』のトルーマン・カポーティの時代は、作者が自分の小説を朗読する会が、けっこうあったんですよね。そういう形での一期一会、ライブの芸は小説の世界はあるのかと思います。漫画や映画やアニメだと、何が該当するのか、解りませんが。それは作品ではなく、江口寿史先生と上條淳士先生が吉祥寺でやっていたオリジナルTシャツの販売をやっていた30Tみたいな、イベントによる仕掛け、これがヒントかもしれませんね。
どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ
※本記事はMANZEMI講師のnote記事を承諾を得て転載したものです。
※出典:https://note.com/mogura2001/n/n2a0b3363ec5e