記号としての漫画表現と不易流行

記号としての漫画表現と不易流行

By MANZEMI

漫画ネーム

この記事を書こうと思った発端は、こちらのツイートでした。

言わんとすることは同意できる部分もありますが、オタクが時代を把握できていないというのは、個別に論じるべき問題でしょうね。なぜなら、「辞書には死んだ言葉から順に記載される」というサンキュータツオ氏の指摘もあるように。漫画の表現はそもそも写実ではない、記号表現だから、記号として定着したもの=古びたモノが使われる傾向があるわけです(一般論)。

同人誌に限らず、漫画のファッションや若者像が周回遅れである理由は、いろいろあります。そもそも読者対象が現在進行形の若者ではないから問題にならない、ってのがあります。オッサン・オバサンが描いてオッサン・オバサンが読む側面があるのですから、そういう人が読んで理解できる表現が優先。

もうひとつ、漫画の表現は記号であると、手塚治虫御大が口が酸っぱくなるほど言っていたポイントがあります。記号ってのは、言語学者のフェルナンド・ソシュールをルーツとする構造主義で、強調される概念です。日本では丸山圭三郎先生とかが紹介されていますが、漫画原作者の鍋島雅治先生の、中央大学フランス語学科の恩師でもあります。

記号表現とは何か

記号の定義はイロイロですが、Wikipedia先生では《記号(きごう、英語: Sign)とは、情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体のことである。狭義には、文字やマーク、絵など、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果など)までをも含む。》と定義されています。

例えば、 ( ´ ▽ ` )ノ なんてアスキーアートを見せられると、笑ってる人間が左手を上げているように見えます。また www なんて記号表現でも笑いを表現できますし、文末の (笑) でも通じる人には通じます。ただ、最初のやつはともかく、残り2つは日本語文化圏の、インターネット文化を謳歌する世代限定ですが。

これが絵文字だと、😀や😄や😆のどれでも、笑ってる人間とほぼ万国共通で認識されますね。つまり、写真や写実的な絵ではなく、抽象化された表現が記号とも言えます。だから、☎️とかの電話の形はもう一般の家庭ではあまり見かけなくても、記号としては通用します。受話器📞も、こういう形は公衆電話に残っていますし、そもそもそんなに形状が大きく変わりませんから。

経年劣化と記号

例えばアイドル映画って、それが数年前のものでも、今観ると髪型やファッションや言葉遣いが、とてつもなく古く感じことってありますよね? ところが、漫画やアニメはそれが数十年前の作品でも、あまり気にせず鑑賞できます。よく見れば「そんな髪型のヤツ、今どきいねーよ」状態でも、あまり気にならない。サザエさんの髪型とか、昭和20年代のものですから。

ドラえもんの、空き地に土管って表現は、藤子不二雄先生らが上京した昭和30〜50年代の東京の風景です。高度成長時代、下水道の整備が進められて、ああいう光景が普通にあったようです。また昔はジャイアンが持ってたのは王選手のホームランボールだったのですが、平成の世では松井選手のホームランボールに、時代に合わせて書き換えられましたが、ジャイアンの服装は50年近く前のモノのままでも、さほど違和感はないです。

なぜならドラえもんの風景や服装は写実的ではない、抽象化された記号だから。シンプルな絵柄も相まって、古く感じないわけです。これがアイドル映画だと、履いてるのがベルボトムのズボンで、呼び名もパンタロンだった時代と、ほぼ重なります。古すぎて、時代を表す記号にさえなっていますが。若者には下手したら祖父母の時代の話。

記号の記号化

記号ってのは、ある程度は定着した共通認識が前提です。例えば、イエスとノーの意思表示が、イエスなら首を縦に振るのが当たり前と思いがちですが、国や文化によっては横に振る、真逆の文化があります。縦ならイエスが定着した文化圏で、横に振るのが最新の若者文化として流行したとしても、定着するまではけっこうなタイムラグがあるでしょう。当たり前の話ですね。

奔放な女性の記号もチャラ男の記号も、時代で変わるものです。でも、漫画表現が記号である以上、定着した記号を優先するのは当然です。なので10年や20年のラグは誤差の範囲でしょう。なのに、「漫画の表現は写実ではないよ、記号だよ」と繰り返し言っても、理解できない人間は多いです。

そう言えば自分が高校の頃、きうちかずひろ先生の『BE-BOP-HIGHSCHOOL』で、宮下あきら先生の漫画『私立極道高校(1979-1980年)』や『檄!! 極虎一家(1980-1982年)』での不良高校生のファッション──ボロボロのヨーランにハラマキ、ボンタンなど──を馬鹿にする描写がありました。なるほど、当時の『BE-BOP-HIGHSCHOOL(1983-2003年)』の変形学生服はリアルで、最新の高校生のファッションだったのですが……今となってはどっちも昭和の時代の、古くさいファッションです。こんなヤツいね〜よという。

しかしどっちも不良高校生であると、令和の時代の読者が認識する記号として、問題なく読めます。これは荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険(1984-連載中)』の丈太郎の服装も同じ。奇しくも、ここで挙げた作品は全て1980年代に始まった作品です。ファッションの古い新しいなんてのは、その程度のものとも言えます。それよりも重要なのは、息の長い記号になるか否か、でしょう。

ビートルズに間に合った

清水義範先生の短編小説『ザ・対決』という短編集でしたか、最澄と空海について、面白い例えがありました。海外留学した音楽評論家で、ビートルズが出てくる前に帰国した人物が最澄、ビートルズに間に合った人物が空海みたいなモノ、と。密教という、当時の最新・最先端の宗教を持ち帰れた空海と、持ち帰れなかった最澄という対比。

ロックンロールが時代を変えた象徴的な音楽なのは、異論がないでしょう。最初の波はエルヴィス・プレスリー。現在も彼の曲の多くはスタンダードナンバーとして愛されていますし、カバーする人も多いです。教科書にさえ、プレスリーの曲は載っています。しかし、ビートルズの出現と世界的な熱狂は、それを知らずしてロックを語ることは不可能なほどに、インパクトが大きかったのも疑いないでしょう。

ビートルズの活動期間は1960年から1970年まで。ジョン・レノンが亡くなったのが1980年、小学生だった自分も世間が騒然となっていたのを覚えています。活動期間に関して言えば、1969年に年に連載スタートのドラえもんよりも、さらに古いです。しかしビートルズは世界的なスタンダードとなり、教科書にも載り、たぶんこれから何十年も愛されるでしょう。息の長い記号とは、そういうことです。

■古典となるということ■

しかし、そのレノンをして「ロックンロールとはチャック・ベリーのこと」とまで言わしめたチャック・ベリーという元祖ロックンローラーを、ご存知ですか? 音楽に疎い自分は、ずいぶん後になって名前を知りました。2017年まで存命で活動されていたのですが、一般への知名度は段違いに低いです。ビートルズのメジャーさとは、比べるべくもなく。代表曲を聴いても、これ知ってるというタイプのミュージシャンではありません。

チャップリンやビートルズは、多くの人が知っています。でもチャック・ベリーやビル・ヘイリーの名前を知っているのは、そこそこ以上の洋楽好きに限られるでしょう。スタンダード・ナンバーになるというのは、歌舞伎の十八番みたいなもので、誰もが良くは知らないがなんとなくは知っているレベルになる、ということなのでしょう。

落語家の立川談志家元は、落語が能や歌舞伎のようになる危機感を20代の終わり、1965年に『現代落語論』で表明していましたけれど。実際は、能や歌舞伎のような古典になるのは難しいことです。例えば、歴史の教科書に登場する、後白河法皇が熱中した今様という芸能は、現在ほとんど残っていません(ただし童謡や唱歌に七五調の歌詞は残っていたりしますが)。今様とは、現代歌謡ぐらいの意味が、当時はあったのに。生き残れなかった現代歌謡みたいな。

■マーケティングでヒット作は生まれるか?■

ことほど左様に、何が消え何が残るか、その見極めは難しいです。未来に落語を残そうと『圓生百席』をレコードに録音した六代目三遊亭圓生よりも、その場で消えていくライブの芸として演じた五代目古今亭志ん生の演目の方が、今でも圧倒的に売れているのですから。当時の評論家は、志ん生より八代目桂文楽を高く評価していましたが。大衆が愛したのは志ん生(圓生も文楽も昭和の大名人で自分も好きですけどね)。

昭和の漫才ブームも、人気が先行したのはB&Bやザ・ボンチでしたが、後世への影響はツービートのビートたけしさん。小学生の自分は、たけしさんの笑いは毒が強くて、当初は好きではありませんでした。平成のお笑いシーンも、若手の頃は人気伯仲だった圭・修は消え、ダウンタウンが天下を獲ったのですが。ダウンタウンの松本人志氏も、ウンコを連呼するのが苦手でした。でも、生き残ったのはビートたけしの笑いで、松本人志の笑い。二人とも落語が好きというのも、共通していますが。

奇しくも、生前の鍋島雅治先生が、最後にリツイートされた作品の、村岡先生の体験談とも、リンクするのですが……。自分もとても共感するツイートですので、以下に引用しておきますね。

売れる方程式があるわけでもなし、ファッション誌や時事を扱う雑誌ならともかく、無闇に新しさを強要する漫画編集者は、手塚治虫御大の記号論を理解していない、勉強不足野郎だと思っても、そうハズレないと思いますよ? 新しさを求めれば、古びるのも早くなる訳で。

■出発点は情熱■

自分も、マーケティング自体は否定しませんよ。でも、今これが市場に受けてるからこんな作品を作ろうじゃ、ダメ。それはただの時流への迎合。こんな作品を書きたい・書いたけど、それを求める市場はどこにあるか、それが掘り返せるかを調べるのがリサーチだと思うんですけどね。「グラハム・ベルは電話を発明する前に市場調査したのか?」とのスティーブ・ジョブスの名言もあります。もちろん、ベルはそんなことはしていません。

何がスタンダードになるかの見極めは難しいので、小賢しい計算やマーケティングよりも、自分の好きを優先すべきかと。それがスタンダードになったらラッキー、スタンダードどころか市場さえなかったら、ゴメンナサイでいいんじゃないですかね。漫画家は予言者でも未来学者でもないのですから。もちろん、その自己責任の代価は貧乏ですが。宮崎駿監督の『未来少年コナン』はさほど視聴率が取れず、『カリオストロの城』は記録的な不入りで、数年間干されたほど。

名作でも、時代が味方しなければヒットしない作品は多いわけで。誰もが天才と認めるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも、オペラは打ち切りだし、コンサートは不入りで、晩年は借金を頼む手紙が多く残され、亡くなった後は墓所さえよくわからなくなっているわけで。正統という意味では、宮廷楽長だったアントニオ・サリエリのほうが、当時は正統派だった訳です。

でも、今日ではモーツァルトは世界中で愛され、たぶん数百年後も古典の中心にいるでしょう。でも、サリエリは忘れ去られ、戯曲『アマデウス』と、それを巨匠ミロス・フォアマン監督の映画で、ようやく再評価されつつありますが。もしあなたが、モーツァルトではなくサリエリを選んでも、大好きという熱量を感じてくれる人は、いるはずです。数は少なくても。その数が一定数あれば、商業プロとして食っていける……かもしれないです。不易流行を見極めるより、大事なことだと思いますよ?
どっとはらい

※本記事はMANZEMI講師のnote記事を承諾を得て転載したものです。
※出典:https://note.com/mogura2001/n/n5898db53001a


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