作家に必要な最低限

作家に必要な最低限

Twitter上で、小説家を目指すなら最低1000冊は読んでおかないとという意見が出て、それに対する異論反論が出て、今も活発な議論がされていますが。そこで自分が思い出すのが、ボクシングの名トレーナーとして知られる故エディ・タウンゼントさん。なにしろ、7人もの世界チャンピオンを育て上げた名伯楽。この方に、関根勤さんだったか、王者を育てるコツはと聞いたところ、「ケース・バイ・ケースね」と即答されたとか。けっきょく、真理はそこらあたりでしょうね。

 

作家の才能というのはスポーツと同じで、かなり天賦の世界ですから。漫画家の総数はセルシスの推計で3000人から6000人。戦前戦後の累計でも8000人から多くても15000人ぐらいでしょうね。医師国家免許を厚労省に登録されているのが全国で約32万人だそうですから。50倍から100倍少ない。100メートルを10秒台で走れるとかと同じ才能。小説家は、ラノベ作家のデビュー数から2000人から4000人ぐらい、アニメーターは4500人から6500人ぐらいと推測され、どうも才能の世界は似たような数字になるようで。

■自分の才能を量る■

本をたくさん読んでる人に、作家になる人が多いのは事実です。でも、本をたくさん読めば作家になれるかといえば、そこは違いますしね。繰り返しますが、創作の世界は十分条件はたくさんあっても、必要条件は人それぞれですから。自分に関して言えば、出版社で編集者を10年やったおかげで、作る側の内部事情とか見えましたし、けっこう膨大な知識も得られたので、その知識で才能のなさを補ってる部分はあります。 作品だけ読んでりゃあ身に付くかといえば、上位10%の天才とゴッチャにしちゃダメ、としか。

将棋のある名人の逸話で、まだ小学生の時に見どころがあるというので、あるプロ棋士が会いに来たとか。まずは平手、つまり全部の駒を双方持ってる状態で、対戦したとか。すると、小学生がプロ棋士に勝ってしまったそうです。東大や京大の将棋部でも、プロには駒落ちでも相手ならないほど、プロとアマの棋力に差があるのが将棋。ところがそのプロ棋士、負けたのに今度は飛車角落ちで対戦を望んだそうです。とうぜん、小学生がまた勝つ。すると今度は桂馬香車などを落とし、どんどん駒を減らしていったとか。

これはどういうことかというと、いくら天才小学生でもプロ棋士とでは棋力の差がありすぎるので、そうやって自分がどれぐらい駒を落としたら、互角に対戦できるかを、図っていたんだとか。それを気づかせないようにわざと負けて、萎縮させない。そこで、この子は将来プロ棋士になる実力がある、アマチュア名人が限度と、棋力を図っていたんですね。つまり棋力同様に、才能や適性がないのに闇雲に1000冊読んでも無意味になることもある、ということです。もちろん、それで才能を開花する人もいる。まさに「ケース・バイ・ケースね」の世界。棋力同様に創作の才能も、才能ある人間の相互承認性な部分があります。

■鍛錬法は人それぞれ■

要は、1冊読んで作話のコツを掴む才能なら、それでいいですけど。 大概の人間はそんな天才じゃないですから。100冊読んで才能の不足分を補えるか、1000冊読んで補えるか、試していく必要があるわけです。 1000冊読んでもダメなら、じゃあ文化人類学やら民俗学、あるいは歴史学などから、考えるヒントを得てみるかと、他ジャンルに学んでみる人もいるでしょう。映画とか演劇にヒントを得る人もいるでしょう。これをやれば誰でもプロになれる、なんて特効薬はないです。

これもまた人それぞれで。他ジャンルに学ぶより、2000冊あるいは3000冊読んだほうが身になる人間もいるでしょう、映画を1000本観たほうが得るものが有る人間、それぞれ。自分には何が必要かを見極めることのほうが大事。 それができないと、「これさえ食べていれば痩せる!」みたいな単品ダイエットを試してみたが効果がないか、一時的には痩せてもリバウンドを繰り返す人間と、同じことになります。

たとえば映画評論家の水野晴郎さんや町山智浩氏、落語家として才を発揮する立川志らく師匠が、映画好きが講じて映画を撮ったり脚本を書いたら、『シベリア超特急』や『進撃の巨人』や『異常暮色』のような、ナンジャコリャな作品になってしまったように。 評論や分析する才能と作話の才能は、重なる部分はあっても、別物ですから。 フォークボールがなぜ落ちるかをスパコンのシミュレーションで解析した空体力学が専門の大学教授が、ではどうやって野茂や佐々木のフォークボールを打つかは、教えられないようなもんです。ジャンルが違う。

■教えるのはサバイバル術■

自分が新米編集の頃先輩に、漫画家は3000人ぐらいいて、300人ぐらいが毎年デビューして300人ぐらいが廃業すると言われました。根拠のある数字ではなく、概算なんでしょうけれど。 作家や作品を語ると、天才たちの中でも更に神に選ばれた、だいたい上位10%の人間ばかりが語られるんですけれど。 現実は、名前もあまり知られていない、中間層の80%がジャンルの厚みを支えているんですね。逆に言えば、下位10%にならなければ、廃業せず細々とでも仕事はありますから。

うちの講座は比較的デビュー率が高いですし、漫画だけでなく小説やアニメの方に行く人間もけっこういます。 でも、教えてるのは上位10%のための技術ではなく。廃業せざるを得ない下位10%にならないための、避難術みたいなもんなので。 売れるかどうかなんて、才能以上に運の要素が大きいんだから、当然ですね。今売れっ子の先生たちだって、「自分より才能もあって努力もしているあの先生が、自分より売れていないのはおかしい」と思ってるわけで。

「こうすればデビューできる」とか「こうすれば売れる」 なんてことを言うのは基本、詐欺師だと思っていいですね。そんな方法論はないです。あるかもしれませんが、たぶんそんなものを他人にペラペラ教えてくれる人間はいません。秘伝として隠して、自分でヒット作を出したほうが、よほど儲かるしライバルも増えませんから。自分に何が必要で、それは努力で補えるか、そこの見極めが大事。もっと言えば、プロになることが自己目的化すると、辛いですね。一生アマチュアとして楽しむのも、ひとつの選択肢です。

■天才たちの最低限■

ただ、プロになる人はインプットを大切にしている傾向が強い、というのは事実。手塚治虫先生は、1日4時間ほどの睡眠で、完徹することも多かった人気作家でしたが、年に365本の映画を観るのを、自分に課していたとか。なので、影響を受けた藤子不二雄のお二人も、何年も年に365本の映画を見ていたとか。神様とか天才とか言われた人ですらそうなんですから。普通の才能では、インプットを怠っても通用するというのは、手塚先生や藤子先生以上の才能と、自負されているのでしょう。

あるいは、小説家の中山七里先生は、映画を1日1本と小説を1日1冊は、当たり前なんだそうで。年間365冊365本以上。それで、十数本の連載を抱えて、仕事されてるわけで。自分は会社を辞めてから、映画は年間150本から200本を観るように心掛けていました。コロナ禍で、すっかり今は年間50本から100本ぐらいに落ちていますが。Kindleに溜まった本も、8000冊を超えていますので。作家の修行期間に年間100冊100本がノルマとか、ぜんぜん足りていない可能性が、高いでしょうね。

けっきょく、才能があって当たり前の世界。でも成功のためには、運の要素が70%から90%の世界ですから。ただ、作話に関しては、記憶力や数学や絵画彫刻、音楽、建築などに才能を発揮するサヴァーン症候群の天才たちが、小説や脚本にはいないので。どうも、並外れた計算能力とか、そういう才能とは違う種類の才能が、必要な世界なんでしょうね。宮本武蔵や松本人志さんとか、天才型は師匠につかず独学で独覚しますし。そういう人は育てられないんですが、大ヒット作家をワシが育てたとかいうと、集客にはなるんですが。

 

※本記事はMANZEMI講師のnote記事を承諾を得て転載したものです。
※出典:  https://note.com/mogura2001/n/n18db517dcc78?magazine_key=m7ae47c1478c3


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